2022年10月15日 星期六

『美しい日本の私―その序説』『美の存在と発見』『日本文学の美』求龍堂2本品切 関連人物;近年中國譯本 日も月も天授の子、虹いくたび

 

2022.10.15







川端 康成(かわばた やすなり、1899年明治32年〉6月14日 - 1972年昭和47年〉4月16日)は、日本小説家文芸評論家大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。

代表作は、『伊豆の踊子』『浅草紅団』『抒情歌』『禽獣』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』など[1]




翌10月18日には、三島由紀夫・伊藤整との座談会「川端康成氏を囲んで」が川端家の庭先で行われ、NHKテレビNHKラジオで放送された[284][285][286]。寡黙な中にも川端の喜びの表情がほのかに出ていたという[286]。11月8日に、秋の園遊会に招かれて昭和天皇と面談。同月29日には、日本ペンクラブ主催のノーベル賞受賞祝賀会が開かれた。受賞後の随筆では、〈秋の野に鈴鳴らし行く人見えず〉と記し、「野に鈴」の「野」と「」で〈ノオベル〉とかけた〈言葉遊び〉の戯句を作っている[287]。また川端はその後の随筆では、次のようにも記している[288]

「鈴鳴らし行く」巡礼の句は、私の少年のころのふるさとの景である。また秋の野を行く巡礼の鈴のやうなのが、私の日本風の作品との心も含めた。巡礼である作者の姿は見えなくてよい。巡礼の鈴は哀傷、寂寥のやうだが、その巡礼の旅に出た人の心底には、どのやうな悪鬼妖魔が棲んでゐるかしれたものではない。日本の秋の夕映えの野に遠音さすの声のやうに、人の胸にしみて残るのが、自分の作品でありたいかとの心も、この戯句に入れた。— 川端康成「夕日野」[288]

12月3日に羽田を発ち、スウェーデンに向ったが、その日の朝、川端は家を出る間際に急に、「みんな、勝手に行ってらっしゃい。わたしは行きませんよ」と不機嫌になった[289]。周囲の報道陣や祝賀客の騒ぎへの節度の無さに我慢の限界がきた一瞬であったと見られるという[278]。10日、川端康成はストックホルム・コンサートホールで行われたノーベル賞授賞式に紋付き袴の正装で文化勲章を掛けて出席した。翌々日の12日昼2時10分にはスウェーデン・アカデミーにおいて、スーツ姿で受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった


  • 千羽鶴(1949年5月-1951年10月)
  • 骨拾ひ(1949年10月) - 執筆は1916年
  • 山の音(1949年9月-1954年4月)
  • 天授の子(1950年2月-3月)★
  • 水晶の玉(1950年3月)
  • 虹いくたび(1950年3月-1951年4月)
  • 笹舟(1950年4月)
  • 卵(1950年5月)
  • 地獄(1950年5月)
  • 蛇(1950年7月)
  • 舞姫(1950年12月-1951年3月)
  • たまゆら(1951年5月)
  • 岩に菊(1952年1月)
  • 日も月も(1952年1月-1953年5月)



受賞記念講演『美しい日本の私―その序説』を日本語で行なった[2][290]。この講演は、道元明恵西行良寛一休などの和歌が引用され、エドワード・G・サイデンステッカーにより同時通訳された。

1969年(昭和44年)1月27日に、国会両院でノーベル文学賞受賞感謝決議に出席し、祝意を受け、同月29日には初孫・あかり(女児)が誕生した[32][34]。3月から6月にかけて、日本文学の講演を行なうためにハワイ大学に赴き、5月1日に『美の存在と発見』と題する特別講演を行なった。4月3日には、アメリカ芸術文化アカデミーの名誉会員に選ばれ、6月8日には、ハワイ大学の名誉文学博士号を贈られた。日本では、4月27日から5月11日にかけて、毎日新聞社主催の「川端康成展」が開催された(その後、大阪福岡名古屋でも開催)。

6月には鎌倉市名誉市民に推された。また同月28日には、従兄・黒田秀孝が死去した。9月は、移民百年記念サンフランシスコ日本週間に文化使節として招かれ出席し、特別講演『日本文学の美』を行なった。




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求龍堂


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2本  品切


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関連人物[編集]

芥川龍之介
川端にとり、芥川龍之介は『新思潮』同人の先輩であり、菊池寛を通じて知り合った存在であった。関東大震災の際には、今東光と一緒に芥川を見舞い、3人で吉原界隈の震災跡を歩き、吉原の池の中の多くの凄惨な遺体の数々を見た[127]。川端は、〈その最も醜い死を故人と共に見た私は、また醜い死を見知らぬ人々より以上に、故人の死の美しさを感じることが出来る一人かもしれない〉と、芥川の自殺の後に記している[127]。また、芥川が自殺する前に友人に宛てた遺書の中で書かれていた、「自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである」に着目して、1933年(昭和8年)に随筆『末期の眼』を書き、芥川の小説作法や芸術観に触れている[184][400]
岡本かの子
青山に住んでいた頃、同宿の恒松安夫の中学の同窓だった三明永無が出入りし、それが縁で三明から川端を紹介してもらった[87]。川端は岡本かの子の文章作法を指導し、岡本の処女作『鶴は病みき』を紹介するに当たって推薦文を寄稿するなど、献身的に支えると同時に数々の作品に賛辞を送っていた。岡本は犬が苦手で、多くの犬を飼っていた川端家を訪れる時に怯えていたという[170]。川端は岡本の死後も、多摩川二子神社に建てられた彼女の文学碑の揮毫を担当するなど並々ならぬ思い入れを覗かせていた。晩年も、新たに刊行される『岡本かの子全集』の序文を手入れして改稿するなどしており、その途中の原稿が自宅の書斎に残されていた[3]
石濱金作
川端とは旧制第一高等学校文科、東京帝国大学文学部を通じての文学仲間であり、鈴木彦次郎らと共に、学生時代から様々な交遊を持ち、『新思潮』、『文藝時代』などの同人雑誌の仲間であった。
石濱恒夫
学生時代に川端に傾倒し、従兄の藤沢桓夫の紹介で弟子入りして鎌倉の私邸に住み込んで師事した人物。1940年(昭和15年)12月の初対面の時に、石濱恒夫の母親は川端が食べるものがなくて困っているかもしれないと息子に弁当を持たせた[401]。石濱は川端について、「身近く世話になったり、親しく励ましつづけてくれた文学上の、たったひとりの恩師」と語っている[401]。川端のノーベル文学賞の授賞式には、娘・春上(当時17歳)と共に随行の一員となった。「春上」という名前は、川端が名付けていた[402]。日本の若い娘の和服姿で花を添えるために、同行を誘われた[401]。石濱は、授賞式で家族席に座るという好待遇を受けたことを、「どうして私のような者を…」と訊ねると、川端は、「お母さんのお弁当だよ」と答えたという[401]
梶井基次郎
結核温泉療養のために伊豆湯ヶ島にやって来た時以来、川端と親交を持ち、『伊豆の踊子』刊行の校正を手伝った。梶井は湯ヶ島滞在中、自分の作品を川端に批評してもらったことから、友人にも、「君の作品持つて来ておかないか。僕が持つて行つてもよい。変ちきりんな野心意識なくあの人には読んで貰へると思ふのだ」と勧めていた[403]。川端は梶井の人柄について、〈梶井君は底知れない程人のいい親切さと、懐しく深い人柄を持つてゐる。植物動物の頓狂な話を私はよく同君と取り交した〉と語り[157]、〈静かに、注意深く、楽しげに、校正に没頭してくれたやうであつた。温かい親切である。しかも作品のごまかしはすつかり掴んでしまつた。彼はさういふ男である〉と語っている[404]
片岡鉄兵
『文藝時代』の同人で、「新感覚派映画聯盟」の仲間であった。その後、片岡鉄兵はプロレタリア文学に影響されて左傾化していった。なお、片岡鉄兵と結婚した片岡光枝(姓が偶然同じ片岡)が、川端の茨木中学時代の同級生・片岡重治の妹であったという奇遇があった[42][200]。光枝の兄・重治は、戦争中に爆撃で1944年(昭和19年)に死亡したが[405]、中学時代、川端が室長になる前の寄宿舎の室長で、首席で卒業した秀才だったという[200]。当時の川端の1915年(大正4年)の手帖の記録には、〈片岡重治君に〉という〈私の敬愛するKさん〉で始まる文章があり、いつまでも〈私のアイドルであつてほしい〉という憧れの思いが記され[406]、1916年(大正5年)1月24日の日記には、〈舎生活も深みゆくと共に総ての者に対する幻影はほろび唯片岡に対する幻影のみ残る〉という文がある[407]
菊池寛
川端が友人らと第6次『新思潮』を発刊する際に承諾を得て以来、〈恩人〉として何かと恩顧を受け、作品発表の場から生活面まで多く世話になった作家である。菊池寛は川端の才能を高く買っていたため、川端が伊藤初代と婚約し、仕事が欲しいと依頼した時には、ちょうど洋行するからと自宅の借家を無賃で貸そうとするなど多大な援護を申し出たこともあった[40]。川端の1922年(大正11年)の日記によると、菊池の連載小説『慈悲心鳥』の下書きは川端がやり、お金を貰っていた[87][400]。「生活第一、芸術第二」を終始モットーとしていた菊池は、貧苦にあえぐ文学青年たちに下原稿を書かせ、報酬を与えていたという[400]。生活に困窮していた川端が度々、下宿代を家主から催促され、菊池が援助していたことも記されている[400]
古賀春江
川端は美術展で、前衛画家・古賀春江と知り合って以来、親交を深め、下谷区上野桜木町にいる頃には、本郷区動坂の住む古賀夫妻と互いに行き来する仲であった[408]。川端は古賀の絵を愛し、前衛的な古賀の絵に〈古さがありとすれば、それは東方の古風な詩情の病ひのせゐであらうかと思はれる〉として、〈古賀氏の絵に向ふと、私は先づなにかしら遠いあこがれと、ほのぼのとむなしい拡がりを感じるのである。虚無を超えた肯定である〉と評している[184]
佐多稲子
「窪川稲子」の筆名で、1929年(昭和4年)9月に発表した小説『レストラン・洛陽』は、佐多がカフェで女給をしていた時の体験を題材としていたが、この作品の中で、東京のカフェ聚楽や、カフェ・オリエントを転々としていた伊藤初代がモデルとなっていた。この『レストラン・洛陽』は、奇しくも川端が文芸時評(文藝春秋 1929年10月号)で取り上げて激賞したが[409]、川端はそのモデルが初代だとは気づかなかったという[318][410]
志賀直哉
川端は志賀直哉の作品を学生時代よく読んだとされるが、そのわりには志賀文学について正面から論じたものはなく、自身の文学との間に一定の距離を置いていたようで、〈私も一昔前志賀氏を「小説の神様」として耽読した一人であるが、(『万暦赤絵』を)近頃読み返さうとすると、その神経の「」がむかむかして堪へられなかつた〉としている[411]。しかし川端は志賀に畏敬の念を持っており、初対面の1942年(昭和17年)には、〈生きてゐるうちにはかういふこともあるかと幸せだつた〉と語っている[400]。川端の随筆の絶筆は『志賀直哉』(1971年12月-1972年3月未完)となり、〈志賀さんの太宰治評、これが問題である。やがては、太宰氏の「如是我聞」、志賀さんの「太宰治の死」を生むに至る。〉という文章で終っている[412]。なお、この続きとなる翌月に連載予定の書きかけの原稿があり、志賀と太宰の応酬を語ろうとする文章で、〈「如是我聞」はこんど読み返してみ〉と、途中で切れている[400]
太宰治
第1回芥川賞において、選考委員の川端が太宰の小説の選考に際して、〈例へば、佐藤春夫氏は「逆行」よりも「道化の華」によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど「道化の華」の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた〉と言ったことに対し[413]、太宰が、「私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた」と川端を批判した[414][注釈 46]。この批判に対し川端も翌月に、〈太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい〉と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし[415]、〈さう分れば、私が「世間」や「金銭関係」のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう〉と述べている[415]。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出した[416]。しかし、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった[400]。川端はこの規定決定時に欠席しており、〈この二つの条件には、多少問題がある〉としている[400][417]。なお、『雪国』について太宰は、「川端はずいぶん下手くそな小説ばからい書きつづけていた、だけれどもコケの一念で『雪国』はいい」と言ったとされる[383]
谷崎潤一郎
川端との直接的な交遊はないが、川端の友人・今東光の家に、谷崎潤一郎が1923年(大正12年)1月6日に小林せい子(葉山三千子)と遊びに来ていた際、川端(当時23歳)がちょうど今東光の家を訪問したという川端の日記記録がある。その頃、傷心と青春の自己嫌悪の只中にいた川端は、〈わが惨めさ〉のため、〈(谷崎とせい子のような)性格と生活の人に会ふ気にならず〉に、そのまま家に上がることなく、帰っていった[57][418]。ちなみに、後年に川端が書いた『山の音』や『眠れる美女』に影響されて、谷崎が老人小説『瘋癲老人日記』を着想したのではないかと中村光夫が推測すると、川端は、〈谷崎さんは読んでませんよ。そんなものは〉と受け流している[383]
東山魁夷
1955年(昭和30年)1月刊行の『虹いくたび』の装幀・挿画を東山魁夷が担当したのをきっかけに親交が深まった。川端は東山の絵を愛し、14点の絵を所蔵し、東山の画集へも序文を寄せている[303]。東山も川端同様に、早くに肉親と死別した天涯孤独の人だった[392]。東山は、川端のノーベル文学賞の祝いとして、『北山初雪』を贈呈した[303]。2005年(平成17年)、千葉県市川市の東山邸から、川端の書簡40通が発見され、川端家にも東山の書簡が60通保管されている[303]
北條民雄
本名は七條晃司。ハンセン病のため東京府北多摩郡東村山村の療養施設・全生園で暮しながら小説を書き、20歳の時に小説原稿を川端に送ったことから、才能を見出されて、『間木老人』『いのちの初夜』などが川端の紹介により世に広まったが、23歳で亡くなった。『間木老人』の時の筆名「秩父號一」や、『いのちの初夜』の以降の「北條民雄」の筆名は、川端が名付けた[188][419]。当初、北條は「十條號一」と提案していたが、川端が、それでは実名の手がかりになってしまうとして、「秩父號一」にした。さらに「北條民雄」に筆名を改めたことは、北條本人の希望だったという[188]。川端は北條死後も『北條民雄全集』刊行に尽力した。北條は原稿料や印税の金を全て川端に託すことを遺言に書いていたが、川端はその遺言を聞く前から、北條の遺族へ渡すべきものと決めていたため、少しの寄付を取り計らった他は、北條の父親へ送った[419][420]
北條誠
自身で川端の「押しかけ弟子」と自嘲し、川端を尊敬している作家。川端と知り合いであった橘川ちゑ(秋山ちえ子)が友人の弟として、北條誠を川端に紹介した。川端のノーベル文学賞の授賞式には、娘・元子(当時20歳)と共に随行の一員となった[401]。「元子」という名前は、川端が名付けた[289]。川端が作詞した歌謡曲『生きてゐるのに』の作曲と歌唱は、息子の北條暁がしている。
三島由紀夫
戦後の1946年(昭和21年)に川端が三島の『煙草』を推薦して以来、師弟関係とも言える親交を深めた。川端は三島との出会いを、〈二十三歳の三島が現はれた時、私は自分達の二十代を思ひ、明治このかた文学の新機運の出発は常に二十代が主であつたことを思ひ、戦後の二十代の波が来るかと思つた〉と語っている[421]。川端と三島は年齢差を越えて終生、お互いの才能を評価して敬愛し合う間柄となった[392]。三島は「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という川端への敬意から、あえて「先生」とは呼ばずに、一人の敬愛する人として「川端さん」と呼んだ[102]。2人の交わした書簡は公私にわたり、三島の結婚式媒酌人も川端夫婦が務めた。川端が1961年(昭和36年)に三島に執筆依頼したノーベル文学賞の推薦文も、三島は快く応じ[265]、その時は受賞とはならなかった川端は、〈まああなたの時代まで延期でせう〉と三島に送っている[422]
しかし2人の関係は、川端が三島から祝辞を依頼された「楯の会」1周年パレード(1969年10月)の出席を断わったことから微妙になったとされる[423]。三島が1970年(昭和45年)秋に自衛隊富士演習場から最後に川端に宛てた鉛筆書きの書簡があったとされるが[424]、川端はその内容にびっくり仰天して、本人(三島)の名誉にならないからと言ってすぐに焼却したと、婿養子の川端香男里が述べている[424]。また、川端が自殺する数日前に、川端の意外な面が表れている長文の手紙を平岡梓は受け取ったとし[102]、内容に関しては「ノーコメント」だが、末永く「家宝」として保存すると語っている[102]
横光利一
菊池寛を介して出会ったのをきっかけに川端と親交を持ち、共に「新感覚派」と呼ばれた作家。何かと親友の川端を援護してくれていたとされる[40]改造社から、川端の作品を列冊にして出版したいという申し出があったのは、横光の口添えかもしれないと川端は勘づき、それを直接に横光に訊ねると、「いやあ」と顔を赤らめてソッポを向いていたという[40]。また横光の再婚時の披露宴のために伊豆の湯ヶ島から上京した川端が東京で泊まる所が無いのをすばやく察知し、自分の新婚旅行の逗子ホテルに一緒に行こうと誘ってくれ、思いやりを感じたと川端は語っている[40]。ずっと湯ヶ島に引きこもっていた川端に、「東京に帰るべし」と忠告し、東京府豊多摩郡杉並町馬橋226(現・杉並区高円寺南3丁目-17)の借家を探したのも横光であった[152][157]。川端は、〈若い日から戦争前までも、横光君といふ人がゐなかつたら、私はちがつた小説を書いてゐただらうかと思ふ〉と述懐している[425]
淀野隆三
梶井基次郎を通じて川端と知り合い、梶井の死後も親交があり、淀野が家業の「淀野商店」(鉄材、鉄器具)を継ぐため京都市伏見区両替町4丁目-290番地に帰ってからも、互いの家を行き来し家族ぐるみで交流した[426]。川端は淀野の娘・華子を可愛がり、華子は結婚出産後も川端家と交流し、華子の弟・は、サンケイ新聞記者となり、ノーベル文学賞の授賞式に同行した[21][426]



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