2019年9月26日 星期四

川端康成 《日本的美與我》喬炳南譯法得失。金冬心「能畫一枝風有聲」〈本來面目〉

邱振瑞

川端康成與諾獎致答辭
傍晚時分,我到山外圖書社選購圖書,巧遇鍾漢卿【清】先生,我近前打了招呼,他正在翻閱一本甫出版的《貝聿銘》傳記。他說,數日前已在我的臉書上留言,邀請我到「漢清講堂」介紹芥川龍之介。我向他表示,雖然我豪邁購進了《芥川龍之介全集》,但並非這個領域的專家,僅止於隨興閱讀的程度,不宜自曝其短。如果真要談點什麼的話,我必須潛心閱讀之後,才有資格發言,否則就構成了粗暴的越界。
另外,從交談中得知,鍾先生似乎很關注川端康成〈臨終之眼〉一文中,所隱含的意義,他把川端對於死亡(自死)的思想,追溯到來自芥川的影響。我說,這的確是個好問題,進而鼓勵他擔任文學偵探的任務,把這個文學奇案徹底查清,這樣既可為自己釋疑,又有為讀者偵破奇案的快感。接著,他提及臺灣商務出版了一本小冊子,即川端康成1968年獲頒諾獎致答辭的中譯文,由一位畢業自京都大學的臺灣人迻譯的。我脫口而出,就是那篇〈我在美麗的日本〉?他說,不是,題名為〈日本之美與我〉。出於職業病的緣由,我認為就中文的語感和內涵而言,這個譯名遠比前者更勝一籌。他好奇問道,原因何在?
在我看來,「我在美麗的日本」一詞,很容易造成誤解,不了解川端的文學思想和弦外之音的人,就會認為川端是在宣揚「日本是個景色美麗的國度」,而不是談論他對於日本傳統美學的重視和追尋。有些時候,譯者因抓住字面意義,認為這是遵從原意,而沒有創造性的轉化,進入「得意忘形」的境界,就會出現這種現象。但話說回來,這只是我個人的經驗和看法,未必是放之四海皆準,抱持前者譯法的譯者,同樣可以捍衛自己的觀點。這就是說,為此爭論何者為正,實在毫無意義,不如趕緊騰出時間來,潛心閱讀寫作為好。在此,我改動了一個名言:「翻譯的路太長,而人生苦短。」(2019年9月26日)

精彩。又請待查芥川在東大的畢業論文"Willian Morris 研究",˙是否收入全集中。https://hctranslations.blogspot.com/2019/09/19681212.html

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川端康成 《日本的美與我》喬炳南譯,諾貝爾獎的網站有 川端康成 1968年12月12日日本演講文稿 日文原版和英文翻譯


川端康成 《日本的美與我》喬炳南譯,台北:臺灣商務,1970/1985 三版
這本書應屬精讀、背誦、研究翻譯的好書。

本文/本處只談些"翻譯的問題",其他文化、文學方面,可參考數月後的漢清講堂之講評---以川端康成看日本的文化與文學,無疑的,以佛教的文化為日本文化的根源。

由於主題以"美哉日本的文化為主,中國的文藝人士只提到金冬心的「能畫一枝風有聲」(沒交待文本;暫時找不到出處)。它的翻譯,很有意思:

Here we have the spirit of Zen in Oriental painting. The heart of the ink painting is in space, abbreviation, what is left undrawn. In the words of the Chinese painter Chin Nung: “You paint the branch well, and you hear the sound of the wind.”
英文不稱金冬心,而稱金農(Chin Nung),這是簡化。方便了解。同時, “You paint the branch well, and you hear the sound of the wind.” 也比「能畫一枝風有聲」意思更清楚。


And the priest Dogen once more: “Are there not these cases? Enlightenment in the voice of the bamboo. Radiance of heart in the peach blossom.”
喬炳南譯:道元禪師也有句:"聞竹聲而悟道,觀桃花以明心。"很可以,然而,他遺漏了"見"(Are there not these cases? )。

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道元禪師 Dogen (1200-1253) 在這次演講是要角之一:開場白 (〈本來面目〉的"和歌")和結束語*,都以他為主:


*道元的四季歌,雖然題目叫做〈本來面目〉,而實際上是一方面歌頌著四季的美麗,另一方面卻透露出強烈的禪機來。"
Dogen entitled his poem about the seasons, “Innate Reality”, and even as he sang of the beauty of the seasons he was deeply immersed in Zen.
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“In the spring, cherry blossoms, in the summer the cuckoo.
In autumn the moon, and in winter the snow, clear, cold.”
  春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり 春花秋月杜鵑夏 冬雪皚皚寒意加 道元禅師の「本来の面目」と題するこの歌と、.
“The winter moon comes from the clouds to keep me company.
The wind is piercing, the snow is cold.”

The first of these poems is by the priest Dogen (1200-1253) and bears the title “Innate Spirit”.* The second is by the priest Myoe (1173-1232). When I am asked for specimens of calligraphy, it is these poems that I often choose.

*結語處翻譯成Innate Reality”。

春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり 春花秋月杜鵑夏 冬雪皚皚寒意加
喬炳南譯法就有點勉強 (第2句):
 春花杜鵑 冬寒雪潔馨人意


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現在諾貝爾獎的網站有 川端康成 1968年12月12日日本演講文稿 日文原版和英文翻譯 (它與《日本的美與我》的附錄的英文版https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1968/kawabata/lecture/
,略有不同,有不少改善,譬如說,

ut when we come to the following poems of the Empress Eifuku, who lived at about the same time as Ikkyu, in the Muromachi Period, somewhat later than the Shinkokinshu, we have a subtle realism that becomes a melancholy symbolism, delicately Japanese, and seems to me more modern:
“Shining upon the bamboo thicket where the sparrows twitter,
The sunlight takes on the color of the autumn.”
“The autumn wind, scattering the bush clover in the garden,
sinks into one’s bones.
Upon the wall, the evening sun disappears.”


 《日本的美與我》喬炳南譯,所附的英文;比較2種英文版本,可知道介紹文和詩文都有改進:

 But when we come to the following poems of the Empress Eifuku (1271~1342), from the late Kamakura and early Muromachi periods, somewhat later than the Shinkokinshu, we have a more subtle realism. It becomes a symbol of a  delicately Japanese melancholy symbolism,, and seems to me more modern:
“Shining upon the bamboo thicket where the sparrows twitter,The sunlight takes on the color of the autumn.”
"The hagi* falls, the autumn wind is piercing, Upon the wall, the evening sun disappears.”

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喬炳南譯文也有些缺失,最顯著的是將



かあかやあかあかあかやあかあかや

    あかやあかあかあかあかあかや月

翻譯程
明明皎皎明明皎
皎皎明明白玉盤

英文版:愛德華·G·塞登斯蒂克(英文名稱為:日本,美麗的,和我自己 )
Because of such a spontaneous and innocent stringing together of mere ejaculations as the following, Myoe has been called the poet of the moon:
“Bright, bright, and bright, bright, bright, and bright, bright.
Bright and bright, bright, and bright, bright moon.”

明恵上人が、禅堂に行き帰りする道を照らしてくれる冬の月へ、三十一文字であたたかく呼びかけた心を、とくに「日本人の心」として、川端氏がその講演の最初に取り上げたことは意義の深いことと思う。これは、機械文明の急激な進歩と人間の心とのギャップに、深刻に苦悩をつづける世界の人々、とりわけ西欧の人々に対する、「美しい日本の私」からの問いかけであったと思うと同時に、日本人の一人一人に、「脚下照顧」の喫緊であることを啓示したものともうけとれるのである。— 清水文雄「日本人の心」[17]

あかあか【明明】
brightlyどの窓も明々と明かりがついていたEvery window was illuminated brightly.明々とした大都会
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網路的另一版本: 日中對照
美しい日本の私
我在美麗的日本 川端康成


春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけり 春花秋月杜鵑夏 冬雪皚皚寒意加
道元禅師の「本来の面目」と題するこの歌と、 這是道元禪師的一首和歌,題名《本來面目》。
雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷たき 冬月撥雲相伴隨 更憐風雪浸月身
明恵上人のこの歌とを、私は揮毫を求められた折りに書くことがあります。
這是明惠上人(1173—1232)作的一首和歌。當別人索書時,我曾書錄這兩首詩相贈。
明恵のこの歌には、歌物語と言えるほどの、長く詳しい詞書きがあって、歌の心を明らかにしています。
明惠在這首和歌前面還詳細地寫了一段可以說是敘述這首和歌的故事的長序,以闡明詩的意境。
元仁元年(1224)12月12日の夜、天くもり月くらきに花宮殿に入りて座禅す。やうやく中夜にいたりて、出観の後、峰の房を出でて下房へ帰る時、月雲間より出でて、光り雪にかがやく。
元仁元年(1124)十二月十二日晚,天陰月暗,我進花宮殿坐禪,及至夜半,禪畢,我自峰房四至下房,月亮從雲縫間露出,月光灑滿雪地。
狼の谷に吼ゆるも、月を友として、いと恐ろしからず。下房に入りて後、また立ち出でたれば、月また曇りにけり。
山谷里傳來陣陣狼賃,但因有月亮陪伴,我絲毫不覺害怕。我進下房,後復出,月亮又躲進雲中。
かくしつつ後夜の鐘の音聞こゆれば、また峰の房へのぼるに、月もまた雲より出でて道を送る。峰にいたりて禅堂に入らんとする時、月また雲を追ひ来て、向ふの峰にかくれなんとするよそほひ、人しれず月の我にともなふかと見ゆれば、この歌。
等到聽見夜半鐘聲,重登峰房時,月亮又撥雲而出,送我上路。當我來到峰頂,步入禪堂時,月亮又躲入雲中,似要隱藏到對面山峰後,莫非月亮有意暗中與我做伴?
それにつづけて 在這首詩的後面,他繼續寫道:
山の端に傾ぶくを見おきて峰の禅堂にいたる時、 山の端にわれも入りなむ月も入れ夜な夜なごとにまた友とせむ
步入峰頂禪堂時,但見月兒斜隱山頭。 山頭月落我隨前 夜夜願陪爾共眠
明恵は禅堂に夜通しこもっていたか、あるいは夜明け前にまた禅堂に入ったかして、 禅観のひまに眼を開けば、夜明けの月の光り、窓の前にさしたり。
明惠當時是在禪堂過夜,還是黎明前又折回禪堂,已經弄不清楚,但他又接著寫道:
禅観のひまに眼を開けば、夜明けの月の光り、窓の前にさしたり。我身は暗きところにて見やりたれば、澄める心、月の光りに紛るる心地すれば、隈もなく澄める心の輝けば我が光りとや月思ふらむ
禪畢偶爾睜眼,但見殘月餘輝映入窗前。我在暗處觀賞,心境清澈,仿佛與月光渾然相融。心境無邊光燦燦 明月疑我是賠光
西行を桜の詩人ということがあるのに対して、明恵を「月の歌人」と呼ぶ人もあるほどで、
既然有人將西行稱為「櫻花詩人」,那麼自然也有人把明惠叫做「月亮詩人」了。
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかやあかあかあかあかや月 明明皎皎明明皎 皎皎明明月兒明
と、ただ感動の声をそのまま連ねた歌があったりしますが、夜半から暁までの「冬の月」の三首にしても、「歌を詠むとも実(げ)に歌とも思はず」(西行の言)の趣きで、素直、純真、月に話しかける言葉そのままの31文字で、いわゆる「月を友とする」よりも月に親しく、月を見る我が月になり、我に見られる月が我になり、自然に没入、自然と合一しています。
這首僅以感嘆聲堆砌起來的「和歌」,連同那三首從夜半到拂曉吟詠的「冬月」,其特色就是:「雖詠歌,實際不以為是歌。」(西行的話)這首歌是坦率、純真、忠實地向月亮傾吐衷腸的三十一個字韻,與其說他是所謂「以月為伴」,莫如說他是「與月相親」,親密到把看月的我變為月,被我看的月變為我,而沒人大自然之中,同大自然融為一體。
暁前の暗い禅堂に坐って思索する僧の「澄める心」の光りを、有明の月は月自身の光りと思うだろうという風であります。 「我にともなふ冬の月」の歌も、長い詞書きに明らかのように、明恵が山の禅堂に入って、宗教、哲学の思索をする心と、月が微妙に相応じ相交わるのを歌っているのですが、私がこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思いやりの歌とも受け取れるからであります。
所以殘月才會把黎明前坐在昏暗的禪堂里思索參禪的我那種「清澈心境」的光,誤認為是月亮本身的光正如長序中所述的那樣,「冬月相伴隨」這首和歌也是明惠進入山上的禪堂,思索著宗教、哲學的心和月亮之間,微妙地相互呼應,交織一起而吟詠出來的。我之所以借它來題詞,的確是因為我理解到這首和歌具有心靈的美和同情體貼。
雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこわいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷たくないか。
在雲端忽隱忽現。照映著我往返禪堂的腳步、使我連狼牌都不覺害怕的「冬月」啊,風吹你,你不冷嗎?雪侵你,你不寒嗎?
私はこれを自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、人に書いてあげています。
我以為這是對大自然,也是對人間的一種溫暖、深既體貼人微的歌頌,是對日本人親切慈祥的內心的讚美,因此我才書贈給人的。
そのボッティチェリの研究が世界に知られ、古今東西の美術に博識の矢代幸雄博士も「日本美術の特質」の一つを「雪月花の時、最も友を思う。」という詩語に約(つづ)められるとしています。
以研究波提切利而聞名於世、對古今東西美術博學多識的矢代幸雄博士,曾把「日本美術的特色」之一,用「雪月花時最懷友」的詩句簡潔地表達出來。
雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあう幸いを得た時には、親しい友が切に思われ、このよろこびを共にしたいと願う、つまり、美の感動が人なつかしい思いやりを強く誘い出すのです。
當自己看到雪的美,看到月的美,也就是四季時節的美而有所省悟時,當自己由於那種美而獲得幸福時,自己就會熱切地想念知心的朋友,但願他們能夠共同分享這份快樂。這就是說,美的感動,強烈地誘發出對人的懷念之情。
この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。また「雪、月、花」という四季の移りの折り折りの美を現わす言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現わす言葉とするのが伝統なのであります。
這個「朋友」,也可以把它看做廣泛的「人」。另外,以「雪、月、花」幾個字來表現四季時令變化的美,在日本這是包含著山川草木,宇宙萬物,大自然的一切,以至人的感情的美,是有其傳統的。
そして日本の茶道も、「雪月花の時、最も友を思う」のがその根本の心で、茶会はその「感会」、よい時によい友どちが集うよい会なのであります。
日本的茶道也是以「雪月花時最懷友」為它的基本精神的,茶會也就是「歡會」,是在美好的時辰,邀集最要好的朋友的一個良好的聚會。
―――ちなみに、私の小説「千羽鶴」は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶、それに疑いと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。
——順便說一下,我的小說《千隻鶴》,如果人們以為是描寫日本茶道的「精神」與「形式」的美,那就錯了,毋寧說這部作品是對當今社會低級趣味的茶道發出懷疑和警惕,幷予以否定的。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり 春花秋月杜鵑夏 冬雪皚皚寒意加
この道元の歌も四季の美の歌で、古来の日本人が春、夏、秋、冬に第一に愛でる自然の景物の代表をただ四つ無造作にならべただけの、月並み、常套、平凡、この上ないと思えば思え、歌になっていない歌と言えば言えます。
道元的這首和歌也是漚歌四季的美的。自古以來,日本人在春、夏、秋、冬的季節,將平常四種最心愛的自然景物的代表隨便排列在一起,興許再沒有比這更普遍、更一般、更平凡,也可以說是不成其為歌的歌了。
しかし別の古人の似た歌の一つ、僧良寛の辞世 不過,我還想舉出另一位古僧良寬所寫的一首絕命歌,它也有類似的意境:
形見とて何か残さん春は花山ほととぎす秋はもみぢ葉 秋葉春花野杜鵑 安留他物在人間
これも道元の歌と同じように、ありきたりの事柄とありふれた言葉を、ためらいもなく、と言うよりも、ことさらもとめて、連ねて重ねるうちに、日本の真髄を伝えたのであります。まして良寛の歌は辞世です。
這首詩同道元的詩一樣,都是把尋常的事物和普通的語言,與其說不假思索,不如說特意堆砌在一起,以表達日本的精髓,何況這又是良寬的絕命歌呢。
霞立つ永き春日を子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ 風は清し月はさやけしいざ共に踊り明かさむ老いの名残りに世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる
浮雲霞彩春光火 終日與子戲拍球 習習清風明月夜 通宵共舞惜殘年 幷非逃遁厭此世 只因獨愛自逍遙
これらの歌のような心と暮らし、草の庵に住み、粗衣をまとい、野道をさまよい歩いては、子供と遊び、農夫と語り、信教と文学との深さを、むずかしい話にはしないで、「和顔愛語」の無垢な言行とし、しかも、詩歌と書風と共に、江戸後期、18世紀から19世紀の始め、日本の近世の俗習を超脱、古代の高雅に通達して、現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれている良寛、その人の辞世が自分は形見に残すものはなにも持たぬし、なにも残せるとは思わぬが、自分の死後も自然はなお美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう、という歌であったのです。
良寬的心境與生活,就像在這些歌里所反映的,住的是草庵,穿的是粗衣,漫步在田野道上,同兒童戲耍,同農夫閒聊。儘管談的是深奧的宗教和文學,卻不使用難懂的語言。那種「和顏藹語」的無垢言行,同他的歌和書法風格,都擺脫了自江戶後期,18世紀末到19世紀初的日本近代的習俗,達到古代的高雅境界。直到現代的日本,他的書法和歌仍然深受人們的敬重。他的絕命歌,反映了自己這種心情:自己沒有什麼可留作紀念,也不想留下什麼,然而,自己死後大自然仍是美的,也許這種美的大自然,就成了自己留在人世間的惟一的紀念吧。
日本古来の心情がこもっているとともに、良寛の宗教の心も聞える歌です。
這首歌,不僅充滿了日本自古以來的傳統精神,同時仿佛也可以聽到良寬的宗教的心聲。
いついつと待ちにし人は来りけり今は相見てなにか思はん 望斷伊人來遠處 如今相見無他思
このような愛の歌も良寛にはあって、私の好きな歌ですが、老衰の加わった68歳の良寛は、29歳の若い尼、貞心とめぐりあって、うるわしい愛にめぐまれます。
良寬還寫了這樣一首愛情歌,也是我所喜歡的。衰老交加的六十八歲的良寬,偶遇29歲的年輕尼姑純真的心,獲得了崇高的愛情。
永遠の女性にめぐりあえたよろこびの歌とも、取れます。「今は相見てなにか思はん」が素直に満ちています。
這首詩,既流露了他偶遇終身伴侶的喜悅,也表現了他望眼欲穿的情人終於來到時的歡欣。「如今相見無他思」,的確是充滿了純真的樸素感情。
良寛は74歳で死にました。私の小説「雪国」と同じ雪国の越後、つまり、シベリアから日本海を渡って来る寒風に真向いの、裏日本の北国、今の新潟県に生れて、生涯をその雪国に過ごしたのでしたが、老い衰えて、死の近いのを知った、そして心がさとりに澄み渡っていた、この詩僧の「末期の眼」には、辞世にある、雪国の自然がなお美しく映ったであろうと思います。
良寬74歲逝世。他出生在雪多越後,同我的小說《雪國》所描寫的是同一個地方。就是說,那裡是面對內日本的北國,即現在的新海縣,寒風從西伯利亞越過日本海刮來。他的一生就是在這個國里度過的。他日益衰老,自知死期將至,而心境卻清澈得像一面鏡子。這位詩僧「臨終的眼」,似乎仍然映現出他那首絕命歌里所描述的雪國大自然的美。
私に「末期の眼」という随筆がありますが、ここでの「末期の眼」という言葉は、芥川龍之介の自殺の遺書から拾ったものでした。
我曾寫過一篇隨筆《臨終的眼》,但在這裡所用的「臨終的眼」這句話,是從芥川龍之介(1892一1927)自殺遺書中摘錄下來的。
その遺書のなかで、殊に私の心を惹いた言葉です。「所謂生活力と云う」、「動物力」を「次第に失っているであろう」、 僕の今住んでいるのは氷のように澄み渡った、病的な神経の世界である。
在那封遺書里,這句話特別撥動了我的心弦。「所謂生活能力」,「動物本能」,大概「會逐漸消失的吧」。現今我生活的世界,是一個像冰一般透明的、又像病態一般神經質的世界。
(中略)僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はこう云う僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。けれども自然の美しいのは、僕の末期の眼に映るからである。
……我什麼時候能夠毅然自殺呢?這是個疑問。惟有大自然比持這種看法的我更美,也許你會笑我,既然熱愛自然的美而又想要自殺,這樣自相矛盾。然而,所謂自然的美,是在我「臨終的眼」里映現出來的。
1927年、芥川は35歳で自殺しました。私は「末期の眼」のなかにも「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大成の域に遠い。」と書いていまして、芥川やまた戦後の太宰治などの自殺を賛美するものでも、共感するものでもありません。
1927年,芥川35五歲就自殺了。我在隨筆《臨終的眼》中曾寫道:「無論怎樣厭世,自殺不是開悟的辦法,不管德行多高,自殺的人想要達到聖境也是遙遠的。」我既不讚賞也不同情芥川,還有戰後太宰治(1909—1948)等人的自殺行為。
しかし、これも若く死んだ友人、日本での前衛画家の一人は、やはり年久しく自殺を思い「死にまさる芸術はないとか、死ぬることは生きることだとかは、口癖のようだったそう」(末期の眼)ですが、仏教の寺院に生まれ、仏教の学校を出たこの人の死の見方は、西洋の死の考え方とはちがっていただろうと、私は推察したものでした。「もの思う人、誰か自殺を思わざる。」でしょうが、そのことで私の胸にある一つは、あの一休禅師が、二度も自殺を企てたと知ったことであります。
但是還有另一位年紀輕輕就死去的朋友,日本前衛派畫家之一,也是長期以來就想自殺的。「他說再沒有比死更高的藝術,還說死就是生,這些話像是他的口頭禪。」(《臨終的眼》)我覺得這位生於佛教寺院、由佛教學校培養出來的人,他對死的看法,同西方人對死的想法是不同的。「有牽掛的人,恐怕誰也不會想自殺吧。」由此引起我想到另一樁事,就是那位一休禪師曾兩次企圖自殺的事。
ここで一休を「あの」と言いましたのは、童話の頓智和尚として子供たちにも知られ、無礙奔放な奇行の逸話が広く伝わっているからです。
在這裡,我之所以在「一休」上面貫以「那位」二字,是由於他作為童話里的機智和尚,為孩子們所熟悉。他那無礙奔放的古怪行為,早已成為佳話廣為流傳。
「童児が膝にのぼって、ひげを撫で、野鳥も一休の手から餌を啄む。」という風で、これは無心の極みのさま、そして親しみやすくやさしい僧のようですが、実はまことに峻厳深念な禅の僧であったのです。
他那種「讓孩童爬到膝上,撫摸鬍子,連野鳥也從一休手中啄食」的樣子,真是達到了「無心」的最高境界。看上去他像一個親切、平易近人的和尚,然而,實際上確實是一位嚴肅。深謀遠慮的禪宗僧侶。
天皇の御子であるとも言われる一休は、六歳で寺に入り、天才尐年詩人のひらめきも見せながら、宗教と人生の根本の疑惑に悩み「神あらば我を救え。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を肥せ。」と、湖に身を投げようとして引きとめられたことがあります。
還被稱為天皇御於的一休,六歲人寺院,一方面表現出天才少年歌人的才華,另一方面也為宗教和人生的根本問題所困惑而陷入苦惱。他曾疾呼『倘有神明,就來救我。倘若無神,沉我湖底,以葬魚腹「!當他正要投湖時,被人攔住了。
また後に、一休の大徳寺の一人の僧が自殺したために、数人の僧が獄につながれた時、一休は責任を感じて「肩の上重く」、山に入って、食を断ち、死を決したこともあります。
後來有一次,由於一休所在的大德寺的一個和尚自殺,幾個和尚竟被株連人獄,這時一體深感有責,於是」肩負重荷「,入山絕食,又一次決心尋死。
一休はその「詩集」を自分で「狂雲集」と名づけ、狂雲とも号しました。そして「狂雲集」とその続集には、日本の中世の漢詩、殊に禅僧の詩としては、類いを絶し、おどろきに肝をつぶすほどの恋愛詩、閨房の秘事までをあらわにした艶詩が見えます。
一休自己把那本歌集,取名《狂雲集》,並以「狂雲」為號,在《狂雲集》及其續集裡,可以讀到日本中世的漢詩,特別是禪師的詩,其中有無與倫比的、令人膽戰心涼的愛情詩,甚至有露骨地描寫閨房秘事的艶詩。
一休は魚を食い、酒を飲み、女色を近づけ禅の戒律、禁制を超越し、それらから自分を解放することによって、そのころの宗教の形骸に反逆し、そのころ戦乱で崩壊の世道人心のなかに、人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでしょう。
一休既吃魚又喝酒,還接近女色,超越了禪宗的清規戒律,把自己從禁錫中解放出來,以反抗當時宗教的束縛,立志要在那因戰亂而崩潰了的世道人動中恢復和確立人的本能和生命的本性。
一休のいた京都紫野の大徳寺は、今日も茶道の本山のさまですし、一休の墨蹟も茶室の掛け物として貴ばれています。私も一休の書をニ幅所蔵しています。
一休所在的京都紫野的大德寺,至今仍是茶道的中心。他的書法也作為茶室的字幅而被人敬重。我也珍藏了兩幅一休的手跡。
その一幅は、「仏界入り易く、魔界入り難し。」と一行書きです。私はこの言葉に惹かれますから、自分でもよくこの言葉を揮毫します。意味はいろいろに読まれ、またむずかしく考えればきりがないでしょうが、「仏界入り易し」に続けて「魔界入り難し」と言い加えた、その禅の一休が私の胸に来ます。
。一幅題了一行「入佛界易,進魔界難」。我頗為這句話所感動,自己也常揮筆題寫這句話。它的意思叮作各種解釋,如要進一步往深處探討,那恐怕就無止境了。繼「人佛界易」之後又添上一句「進魔界難」,這位屬於禪宗的一體打動了我的心。
究極は真・善・美を目指す芸術家にも「魔界入り難し」の願い、恐れの、祈りに通う思いが、表にあらわれ、あるいは裏にひそむのは、運命の必然でありましょう。「魔界」なくして「仏界」はありません。そして「魔界」に入る方がむずかしいのです。心弱くてできることではありません。
歸根到底追求真、善、美的藝術家,對「進魔界難」的心情是:既想進人而又害怕,只好求助於神靈的保佑。這種心境有時表露出來,有時深藏在內心底里,這興許是命運的必然吧。沒有「魔界」,就沒有「佛界」。然而要進人「魔界」就更加困難。意志薄弱的人是進不去的。
仏ニ逢ヘバ仏ヲ殺セ 祖ニ逢ヘバ祖ヲ殺セ 逢佛殺佛,逢祖殺祖
これはよく知られた禅語ですが、他力本願と自力本願とに仏教の宗派を分けると、勿論自力の禅宗にはこのように激しくきびしい言葉もあるわけです。
這是眾所周知的禪宗的一句口頭禪,若將佛教按「他力本願」和「自力本願」來劃分宗派,那麼主張自力的禪宗,當然會有這種激烈而又嚴厲的語言了。
他力本願の真宗の親鸞の「善人往生す。いはんや悪人をや。」も、一休の「仏界」「魔界」と通う心もありますが、行きちがう心もあります。その親鸞も「弟子一人持たず候」と言っています。「祖に逢へば祖を殺し」、「弟子一人持たず」は、また芸術の厳烈な運命でありましょう。
主張「他力本願」的真宗親寫(1173一1262)也有一句話:「善人尚嚮往生,況惡人乎廣這同一休的「佛界」。「魔界」,在心靈上有相通之處,也有差異之點。那位親鸞也說,他「沒有一個弟子」。「逢祖殺祖」、「沒有一個弟子」,這大概又是藝術的嚴酷命運吧。
禅宗に偶像崇拝はありません。禅寺にも仏像はありますけれども、修行の場、座禅して思索する堂には仏像、仏画はなく経文の備えもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で坐っているのです。そして、無念無想の境に入るのです。
禪宗不崇拜偶像。禪寺里雖也供佛像,但在修行場、參樣的禪堂,沒有佛像、佛畫,也沒有備經文,只是瞑目,長時間靜默,紋絲不動地坐著。然後,進入無思無念的境界。
「我」をなくして「無」になるのです。この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです。
滅我為無。這種「無」,不是西方的虛無,相反,是萬有自在的空,是無邊無涯無盡藏的心靈宙。
禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、禅の古典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。
當然,禪也要由師指導,和師問答,以得啟發,幷學習禪的經典。但是,參禪本人始終必須是自己,開悟也必須是靠獨自的力量。
そして、論理より直観です。他からの教えよりも、内に目ざめるさとりです。真理は「不立文字」であり、「言外」にあります。
而且,直觀要比倫理重要。內在的開悟,要比外界的教更重要。真理「不立文字」而在「言外」。
唯摩居士の「黙雪ノ如シ」まで極まりもしましょう。中国の禅宗の始祖、達磨大師は「面壁九年」と言いまして、洞窟の岸壁に向って九年間坐りつづけながら、沈思黙考の果てに、さとりに達したと伝えられています。 禅の座禅はこの達磨の座禅から来ています。
達到維摩居士的「默如雷」的境地,大概就是開悟的最高境界了吧。中國禪宗的始祖達摩大師,據說他曾「面壁九年」,即面對洞窟的岩壁,連續坐禪九年,沉思默想的結果,終於達到了開悟的境界。禪宗的坐禪就是從達摩的坐禪開始的。
問へば言ふ問はねば言はぬ達磨どの心の内になにかあるべき(一休) 問則答言不則體 達摩心中萬般有 (一休)
また、同じ一休の道歌 一休還吟詠了另一首道歌:
心とはいかなるものを言ふならん墨絵に書きし松風の音 若問心靈為何物 恰如墨畫松濤聲
これは東洋画の精神でもあります。東洋画の空間、余白、省筆もこの墨絵の心でありましょう。「能ク一枝ヲ画キテ風声アリ」(金冬心)です。
這首歌,也可以說是洋溢著東洋畫的精神。東洋畫的空間、空白、省筆也許就是一休所說的墨畫的心境吧。這正是「能畫一枝風有聲」(金冬心)
道元禅師にも「見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明るむ。」との言葉があります。日本の花道、生け花の名家の池坊専応も、その「口伝」に「ただ小水尺樹をもって、江山数程の勝機(おもむき)を現はし、暫時傾刻のあひだに千変万化の佳興をもよほす。あたかも仙家の妙術と言ひつべし」と言っています。
道元禪師也曾有過「雖未見,聞竹聲而悟道,賞桃花以明心」這樣的話。日本花道的插花名家池坊專應也曾「口傳」:「僅以點滴之水,颶尺之樹,表現江山萬里景象,瞬息呈現千變萬化之佳興。正所謂仙家妙術也。」
日本の庭園もまた大きい自然を象徴するものです。西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、広いものを象徴出来るからでありましょう。
日本的庭園也是象徵大自然的。西方庭園多半是造成勻整,日本庭園大體上是造成不勻整。或許正是因為不勻整要比勻整更能象徵豐富。寬廣的境界吧。
勿論その不均整は、日本人の繊細微妙な感性によって釣り合いが保たれての上であります。日本の造園ほど複雑、多趣、綿密、したがってむずかしい造園法はありません。「枯山水」という、岩や石を組み合わせるだけの法は、その「石組み」によって、そこにない山や川、また大海の波の打ち寄せるさままでを現わします。
當然,這不勻整是由日本人纖細而又微妙的感情來保持均衡的。再沒有比日本庭園那種複雜、多趣、細緻而又繁難的造園法了。所謂「枯山水」的造園法,就是僅僅用岩石砌壘的方法,通過「砌壘岩石」,來表現現場沒有的山河的美景以及大海的激浪。
その凝縮を極めると、日本の盆栽となり、盆石となります。「山水」という言葉には、山と水、つまり風景画、庭園などの意味から、「ものさびたさま」とか、「さびしく、みすぼらしいこと」とかの意味まであります。
這種造園法達到登峰造極時就演變成日本的盆景、盆石了。所謂山水這個詞,指的是山和水,即自然的景色,山水畫,也就是風景畫。從庭園等的意義,又引申出「古雅幽靜」或「閒寂簡樸」的情趣。
しかし「和敬清寂」の茶道が尊ぶ「わび・さび」は、勿論むしろ心の豊かさを蔵してのことですし、極めて狭小、簡素の茶室は、かえって無辺の広さと無限の優麗とを宿しております。
但是崇尚「和敬清寂」的茶道所敬重的「古雅、閒寂」,當然是指潛在內心底里的豐富情趣,極其狹窄、簡樸的茶室反而寓意無邊的開闊和無限的雅致。
一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思わせるのです。開き切った花を活けてはならぬと、利休も教えていますが、今日の日本の茶でも、茶室の床にはただ一輪の花、しかもつぼみを生けることが多いのであります。
要使人覺得一朵花比一百朵花更美。利作也曾說過:盛開的花不能用作插花。所以,現今的日本茶道,在茶室的壁龕里,仍然只插一朵花,而且多半是含苞待放的。
冬ですと、冬の季節の花、たとえば「白玉」とか「侘助」とか名づけられた椿、椿の種類のうちでも花の小さい椿、その白をえらび、ただ一つのつぼみを生けます。色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています。そして、そのつぼみには必ず露をふくませます。幾滴かの水で花を濡らしておくのです。
到了冬季,就要插冬季的花,比如插取名「白玉」或「倫助」的山茶花,就要在許多山茶花的種類中,挑選花小色潔、只有一個蓓蕾的。沒有雜色的潔白,是最清高也最富有色彩的。然後,必須讓這朵蓓蕾披上露水。用幾滴水珠潤濕它。
五月、牡丹の花を青磁の花瓶に生けるのは茶の花として最も豪華ですが、その牡丹はやはり白のつぼみ一つ、そしてやはり露をふくませます。花に水のしずくを添えるばかりではなく、花生けもあらかじめ水に濡らしておく焼きものが尐くありません。
五月間,在青瓷花瓶里插上一株牡丹花,這是茶道中最富麗的花。這株牡丹仍只有一朵白蓓蕾,而且也是讓它帶上露水。很多時候,不僅在蓓蕾上點上水珠,還預先用水儒濕插花用的陶瓷花瓶。
日本の焼きものの花生けのなかで最も位が高いとし、また価いも高い、古伊賀(およそ15~16世紀)は水に濡らして、はじめて目ざめるように、美しい生色を放ちます。伊賀は強い火度で焼きますが、その焚きもの(燃料)の藁灰や煙が降りかかって花瓶の体に着いたり流れたりで、火度のさがるにしたがって、それが釉薬のようになるのです。
在日本陶瓷花瓶中,格調最高。價值最貴的古伊賀陶瓷(大約十五六世紀),用水儒濕後,就像剛甦醒似的,放出美麗的光彩。伊賀陶瓷是用高溫燒成的,燃料為稻草,稻草灰和菸灰降在花瓶體上,或飄流過去,隨著火候下降,它就變成像釉彩一般的東西。
陶工による人工ではなく、窯のなかの自然のわざですから、窯変と言ってもいいような、さまざまな色模様が生まれます。その伊賀焼きの渋くて、粗くて、強い肌が、水気を含むと、艶な照りを見せます。茶碗もまた使う前から水にしめしておいて、潤いを帯びさせるのが、茶のたしなみとされています。池坊専応は「野山水辺をおのづからなる姿」(口伝)を、自分の流派の新しい花の心として、破れた花器、枯れた枝にも「花」があり、そこに花によるさとりがあるとしました。「古人、皆、花を生けて、悟道したるなり。」禅の影響による、日本の美の心の目ざめでもあります。 日本の長い内乱の荒廃のなかに生きた人の心でもありましょう。
這種工藝不是陶匠人工做成,而是在窯內自然變化燒成的。也可以稱之為「窯變」,生產出各式各樣的色調花紋。伊賀陶瓷那種雅素。粗擴、堅固的表面,一點上水,就會發出鮮艶的光澤,同花上的露水相互輝映。茶碗在使用之前,也先用水濕過,使它帶著潤澤,這成了茶道的規矩。池坊專應曾把「山野水畔自成姿」(口傳)作為自己這一流派的新的插花要領。在破了的花瓶、枯萎的枝葉上都有「花」,在那裡由花可以悟道。「古人均由插花而悟道」,就是受禪宗的影響,由此也喚醒了日本人的美的心靈。大概也是這種心靈,使人們在長期內戰的荒蕪中得以繼續生活下來的吧。 日本の最も古い歌物語集、短編小説とも見られる話を多く含む「伊勢物語」(10世紀成立)のなかに、 なさけある人にて、かめに花をさせり。その花のなかにあやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかりなむありける。
在日本最古老的歌物語,包括被認為是短篇小說的《伊勢物語》里(10世紀問世),有過這樣一段記載:有心人養奇藤於瓶中。花蔓彎垂竟長三尺六寸。
という、在原行平が客を招くのに花を生けた話があります。花房が三尺六寸も垂れた藤とは、いかにもあやしく、ほんとうかと疑うほどですが、私はこの藤の花に平安文化の象徴を感じることがあります。
這是在原行平接待客人時的插花故事。這種所謂花蔓彎垂三尺六寸的藤確實珍奇,甚至令人懷疑它是不是真的。不過,我覺得這種珍奇的藤花象徵了平安朝的文化。
藤の花は日本風にそして女性的に優雅、垂れて咲いて、そよ風にもゆらぐ風情は、なよやか、つつましやか、やわらかで、初夏のみどりのなかに見えかくれで、もののあわれに通うようですが、その花房が三尺六寸となると、異様な華麗でありましょう。唐の文化の吸収がよく日本風に消化されて、およそ千年前に、華麗な平安文化を生み、日本の美を確立しましたのは「あやしき藤の花」が咲いたのに似た、異様な奇蹟とも思われます。歌では初めての勅撰和歌集の「古今集」、小説では「伊勢物語」、紫式部の「源氏物語」、清尐納言の「枕草子」など、日本の古典文学の至上の名作が現れまして、日本の美の伝統をつくり、八百年間ほどの後代の文学に影響をおよぼすというよりも、支配したのでありました。
藤花富有日本情調,具有女性的優雅,試想在低垂的藤蔓上開著的花兒在微風中搖曳的姿態,是多麼纖細嬌弱。彬彬有禮、脈脈含情啊。它又若隱若現地藏在初夏的郁綠叢中,仿佛懂得多愁善感。這花蔓長達三六寸,恐怕是異樣的華麗吧。日本吸收了中國唐代的文化,而後很好地融會成日本的風采,大約在一千年前,就產生了燦爛的平安朝文化,形成了日本的美,正像盛開的「珍奇藤花」給人格外奇異的感覺。那個時代,產生了日本古典文學的最高名著,在歌方面有最早的敕撰和歌集《古今和歌集》(905),小說方面有《伊勢物語》、紫式部(約907前後一l002前後)的《源氏物語》、清少納言(966前後一1017,根據資料是年尚在世)的《枕草子》等。這些作品創造了日本美的傳統,影響乃至支配後來八百年間的日本文學。
殊に「源氏物語」は古今を通じて、日本の最高の小説で、現代にもこれに及ぶ小説はまだなく、十世紀に、このように近代的でもある長編小説が書かれたのは、世界の奇蹟として、海外にも広く知られています。尐年の私が古語をよく分からぬながら読みましたのも、この平安文学の古典が多く、なかでも「源氏物語」が心におのずからしみこんでいると思います。「源氏物語」の後、日本の小説はこの名作へのあこがれ、そして真似や作り変えが、幾百年も続いたのでありました。和歌は勿論、美術工芸から造園にまで「源氏物語」は深く広く、美の糧となり続けたのであります。
特別是《源氏物語》,可以說自古至今,這是日本最優秀的一部小說,就是到了現代,日本也還沒有一部作品能和它媲美。在十世紀就能寫出這樣一部近代化的長篇小說,這的確是世界的奇蹟,在國際上也是眾所周知的。少年時期的我,雖不大懂古文,但我覺得我聽讀的許多平安朝的古典文學中,《源氏物語》是深深地滲透到我的內心底里的。在《源氏物語》之後延續幾百年,日本的小說都是憧憬或悉心模仿這部名著的。和歌自不消說,甚至從工藝美術到造園藝術,無不都是深受《源氏物語》的影響,不斷從它那裡吸取美的精神食糧。
紫式部や清尐納言、また和泉式部や赤染衛門などの名歌人もみな宮仕えの女性でした。平安文化一般が宮廷のそれであり、女性的であるわけです。「源氏物語」や「枕草子」の時は、この文化の最盛期、つまり爛熟の絶頂から退廃に傾きかける時で、すでに栄華極まった果ての哀愁がただよっていますが、日本の王朝文化の満開がここに見られます。
紫式部和清少納言,還有和泉式部(979一不詳)和赤染衛門(約957—1333)等著名歌人,都是侍候宮廷的女官。難怪人們一般提到平安朝文化,都認為那是宮廷文化或是女性文化。產生《源氏物語》和《枕草子》的時期,是平安朝文化最興盛時期,也是從發展的頂峰開始轉向頹廢的時期,儘管在極端繁榮之後已經露出了哀愁的跡象,然而這個時期確實讓人看到日本王朝文化的鼎盛。
やがて王朝は弱まって政権も公卿から武士に移って、鎌倉時代となり、武家の政治が明治元年まで、おおよそ七百年つづきます。しかし、天皇制も王朝文化も滅び去ったわけではなく、、鎌倉初期の勅撰和歌集「新古今集」は、平安朝の「古今集」の技巧的な歌法をさらに進めて、言葉遊びの弊もありますが、妖艶・幽玄・余情を重んじ、感覚の幻想を加え、近代的な象徴詩に通うのであります。西行法師は、この二つの時代、平安と鎌倉をつなぐ代表的歌人でした。
不久,王朝衰落,政權也由公卿轉到武士手裡,從而進人鎌倉時(1192—1333),武家政治一直延續到明治元年(1868),約達七百年之久。但是,天皇制或王朝文化也都沒有滅亡,鎌倉初期的敕撰和歌集《新古今和歌集》(1205)在歌法技巧上,比起平安朝的《古今和歌集》又前進了,雖有玩弄辭藻的缺陷,但尚注重妖艶、幽玄和風韻,增加了幻覺,同近代的象徵詩有相同之處。西行法師(1118—1190)是跨平安和鎌倉這兩個朝代的具有代表性的歌人。
思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを 夢路には足を休めず通へども現(うつつ)に一目見しごとはあらず
夢裡相逢人不見 若知是夢何須醒 縱然夢裡常幽會 怎比真如見一回
など「古今集」の小野小町の歌は、夢の歌でもまだ率直に現実的ですが、それから「新古今集」を経たのち、さらに微妙となった写生、
《古今和歌集》中的小野小葉的這些和歌,雖是夢之歌,但卻直率且具有它的現實性。此後經過《新古今和歌集》階段,就變得更微妙的寫實了。
群雀声する竹にうつる日の影こそ秋の色になりぬれ。 真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく
竹子枝頭群雀語 滿園秋色映斜陽 蕭瑟秋風獲葉雕 夕陽投影壁間消
など、鎌倉末の永福門院のお歌は、日本の繊細な哀愁の象徴で、私により多く近いと感じられます。「冬雪さえて冷しかりけり」の歌の道元禅師や「われにともなふ冬の月」の歌の明恵上人は、ほぼ「新古今集」の時代の人でした。明恵は西行と歌の贈答もしています。
鎌倉晚期的永福門院的這些和歌,是日本纖細的哀愁的象徵,我覺得同我非常相近。謳歌「冬雪皚皚寒意加」的道元禪師或是歌頌「冬月撥雲相伴隨」的明惠上人,差不多都是《新古今和歌集》時代的人。明惠和西行也曾以歌相贈,幷談論過歌。
西行法師常に来りて物語りして言はく、我が歌を読むは遥かに尋常に異なり。花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあらゆる相これ虚妄なること、眼に遮り、耳に満てり。また読み出すところの言句は皆これ真言にあらずや。花を読めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。ただこの如くして、縁に随ひ、読みおくところなり。紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。しかれども、虚空はもと明らかなるものにもあらず。また色どれる物にもあらず。我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に蹤跡なし。この歌即ち如来の真の形体なり。(弟子喜界の「明恵伝」より)
西行法師常來晤談,說我詠的歌完全異乎尋常。雖是寄興於花、杜鵑、月、雪,以及自然萬物,但是我大多把這些耳聞目睹的東西看成是虛妄的。而且所詠的句都不是真摯的。雖然歌頌的是花,但實際上幷不覺得它是花;儘管詠月,實際上也不認為它是月。只是即席盡興去吟誦罷了。像一道彩虹懸掛在虛空,五彩繽紛,又似日光當空輝照,萬丈光芒。然而,虛空本來是無光,又是無色的。就在類似虛空的心,著上種種風趣的色彩,然而卻沒有留下一絲痕跡。這種詩歌就是如來的真正的形體。(摘自弟子喜海的《明惠傳》)
日本、あるいは東洋の「虚空」、無はここにも言いあてられています。私の作品を虚無という評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。心の根本がちがうと思っています。道元の四季の歌も「本来ノ面目」と題されておりますが、四季の美を歌いながら、実は強く禅に通じたものでしょう。
西行在這段話里,把日本或東方的「虛空」或「無」,都說得恰到好處。有的評論家說我的作品是虛無的,不過這不等於西方所說的虛無主義。我覺得這在「心靈」上,根本是不相同的,道元的四季歌命題為《本來面目》,一方面歌頌四季的美,另一方面強烈地反映了禪宗的哲理。
1968年1月

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川端康成 《日本的美與我》喬炳南譯,台北:臺灣商務,1970/1985 三版

這本書應屬精讀、背誦、研究翻譯的好書。
我猜此篇為所有中文翻譯 (包括稍後的中國版)的原始參考版,所以最值得參考。

未提供相片說明。

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